トージシャ Studies ホウレンソウ

ー私が自分の人生の主人公になるー 問題を自分に引き受けたとき、人は当事者になれる。自分のニーズを掘り起こし、発信できる「当事者」になるために日々奮闘しているマインビーストのメンバーの日報です

自分はバカだからいいんだと思っていた

頭が悪いから世の中の事が理解できないと思っていた。
そうかもしれない―が、「私の分かるように説明してくれ!」と声をあげずに、分かったフリや自分を卑下するのはどうよ?と考えるようになった。

そのキッカケをくれたのが、
「いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論 田中美津著」

なぜ、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ行かなければいけないのか?
なぜ、王子様に見いだされて、王妃になることに憧れないといけないのか?
本当に対等な恋愛関係は成立するのか?
自分の産んだ子が全然可愛くないし愛していない、と思う事は異常なことなのか?
自己都合の殺人は犯罪で、戦争や敵討ちは栄誉なのはなぜなのか?
人を殺したら、罪悪感を感じなければいけないのか?

子供の頃、自分が納得・理解していることは、人も分かっていて、もし知らなくても説明すればすぐ理解してくれる。と無条件で信じていた。
相手の言うことは殆ど理解できなかったが、相手のことを理解したいとは全然思わなかったので問題はないし、少なくとも自分の考えは理解してくれていると思っていた。

でも、相手が分かっていないと気がつく場面は実際あるわけで、その場面で初めて私は「相手が自分の考えを分かっていない」こと思い知るのであった。
また、相手には相手の考えがあるということも。
その気がつく場面というのは、概ねトラブルになった時だ。冷笑されたり、呆れられたり、怒られたり、キレられたり、泣かれたり等々。
私の場合、それ以前の気配の時点では気がつかなかったな。

それで、子供心に「人間ってなんてやっかいなんだ、仙人になりたいよ」と思っていた。