トージシャ Studies ホウレンソウ

ー私が自分の人生の主人公になるー 問題を自分に引き受けたとき、人は当事者になれる。自分のニーズを掘り起こし、発信できる「当事者」になるために日々奮闘しているマインビーストのメンバーの日報です

誘われなかった。いつも。

とても大切にしている思い出がある。
思い出すたびに、胸が苦しくなる。
感謝と切なさが入り交じった、甘酸っぱい思い出だ。
でも、こちらの一方的な思い入れなんだな~。これが。
相手にはそこまでの思い入れはなく、親切心で私をただ可愛がってくれただけ。
それ以外にも、自分だけが一方的に思っていて、相手はもう私の存在すら忘れているだろうという思い出がいくつかある。
知人が「飴玉みたいなもの」と、ひと夏のアバンチュールを表現していた。落ち込んだときに甘いものを口にするとホッとするように、そのアバンチュールの思い出が辛いときの慰めになるのだと。
私にとってのはこれらの思い出が「飴玉」なのだ。
自分にとって良い思い出なのだから、大事にしていても、何の問題もない。と思っていたのだが、少し考えが変わってきた。
その思い出の品を断捨離したくなったのだ。
絶対手離せない、と執着して30年近く大切にしてきた。
その間には、切なすぎて捨ててしまおうと思ったこともある。でも、どうしても捨てることができなかった。
執着のあるまま捨てると、もっと執着が増す。
そもそも、何故そこまでこの品に拘るのか?
今までも散々考えてきた。
その時々の答えはあったが「切なさ」は強く付きまとった。
今、少しその執着から離れることができているようだ。
これは「渇愛」と言うらしい。餓鬼の状態だね。飢えている。何に?多分「愛されること」に。

思い返すと、私が人と会うのはいつも、私から訪ねて行くパターンだ。相手は歓迎してくれるし、お互いにとって、とても有意義な時間だったと思う。
でも、その場限りなのだ。次に繋がらない。
こちらからアプローチしないと何も起こらない。
実は歓迎されていないのでは?と、落ち込むことも多かった。
落ち込むのがいやだから、会いたくても我慢したりもしたし。でも、それは却ってストレスを溜め込むことになる。
そこのところが府に落ちてきた。
だから、その思い出の品と、今、向き合おうと思う。