トージシャ Studies ホウレンソウ

ー私が自分の人生の主人公になるー 問題を自分に引き受けたとき、人は当事者になれる。自分のニーズを掘り起こし、発信できる「当事者」になるために日々奮闘しているマインビーストのメンバーの日報です

どこまで許されるのか?それが問題だ

ものすごくビクビクした。

Wi-Fiルータと携帯のことで、街のケータイショップへ行った。

いつも混んでるが、平日の午前中ということもあって、待ち人がいなかった。ラッキーと思い、入店する。

若いがしっかりした感じの女性が対応してくれた。通信量を調べてもらったが、契約した店でしか確認できない設定になっているらしい。

そこで終わりのところだが、私の素朴な質問にも嫌な顔もせず付き合ってくれた。

渡りに船と色々聞いていると、隣のお客が怒り出した。

経験の若い男性店員の対応に腹を立てているのだが、個人的な怒りをぶつけているという感じだ。

何度も怒鳴る。横で聞いていて、私には関係ないことなのに、心が痛む。担当してくれている女性店員さんが先輩になるのだろう、質問にくる。

何度目かの時に隣のお客が「女なんかに聞くなよ!‼」と怒鳴った。

私のほうが腹が立った。その言葉の持つ差別的な意識に対して。

その女性店員さんは平然としていて「すごい」と感心した。

私のほうが辛くて「怒ってますね」と話しかけないといられなかった。

その男性客が帰って、まだ私は話していたのだが、今度は後ろの待ち椅子から怒気を帯びた声がした。

「この店は何時までやってるの?」振り向いて見ると、シニア女性だった。

女性店員さん「○○時までです」

シニア女性「いつまで待たされるのかしら‼。後でまた来るわ‼。こんなに待たされたの初めてだわ‼」

そう言い捨てて、憤然と立ち去る。

またまた、恐縮してしまう私。

商売にならない話をしていることへの負い目がある。

女性店員さんは、気に止める様子もなく、意に介さない様子で話を続けてくれた。

ますます好感を持った。

お客の言葉や感情にイチイチ反応していたら、この仕事は勤まらないなと、理解した。

そして「私は何にでも反応している」と実感した。

一つは、自分の欲望を出してはいけない。と思っている。

もう一つは、社会常識としてしてはいけない、と思っている。

結局「厚かましい」「浅ましい」は恥ずべきことである。という感覚のようだ。

欲求の後に欲望したことに対して自責するというパターンもある。

感情を切り離して見てみると、どうなるのだろうか。

どこまでが許容範囲なのかが今の私には分からない。